ぼくたちの夢見たゲーセン

話をしよう。
あれは今から10年……いや、20年前だったか。まあいい。


俺がゲーセン少年になったきっかけは、デパートのゲームコーナーだった。
家族でデパートに買い物行く際、100円玉を2枚ほど渡されて買い物が終わるまで放置というのが当時の扱いだった。
元々見知らぬ物に興味津々だった俺にとって、ゲーセン・ビデオゲームというのはタイトル一つとっても画面が目まぐるしく変わるし、また来たときには見たのないゲームが入っているというまさしく夢のような空間だった。
そうやって物心付いたときからゲームに対する憧れを抱いて成長した子供は、自転車に乗れるようになって行動範囲が広がればゲーセンに行くようになるのは当然と言える。
まあまだ本格的ゲーセン=照明暗くてタバコの煙が立ち込めてて不良の巣窟、というイメージの残る時代だったので後にホームになる店に行くようになるのはまた後の話、というか今回の話の趣旨はそこじゃない。


ゲームに触れたとき、ゲーセンでゲームに囲まれているとき、何を見ただろうか?
当時の俺は(今でもそんなに上手くは無いが)下手でもゲームが大好きだった。きっとずっとこういう環境が続くのだと思っていた。ゲームは進化し続けて、この画面の中の世界が無限に広がっていくものだと信じていた。

終わりはプリクラから始まった。
ホームの店がプリクラを置き、それは爆発的に増えた。スペースのためにビデオゲームの筐体は減らされ、遊べるゲームの数も減っていった。
今でこそあれは店として売り上げを上げるための当然の行動だと理解しているが、当時の俺は理解できなかった。憤った。なぜゲーセンがゲームを減らすのか。
言い換えれば、既にあのときゲーセンにとっての上客はプリクラを撮りにくる女子高生らであって、俺たち常連ではなくなっていたということに気付けるほど大人ではなかった。

そうしてメーカー経営の店はアミューズメント施設となり、そうでないものは静かに消えていった。俺の地元のホームも消えた。随分前の話だ。

そして今、ふと思うことがある。ゲーセンというのはこうなるものだったのではないか?
昔のゲームは移植されて家庭で遊べるようになり、家にいながらネットを介して見知らぬ他人と遊べるようになった。ゲーセンというものが必要とされた時代は終わったのではないか?

勘違いしないでもらいたいのは、俺はビデオゲームの終焉を望んでるわけではない。いつまでも続くのならば続いてもらいたいという気持ちはある。
けれど事実としてゲーセンは消えていっているわけで、ビデオゲームは絶滅の危機に瀕している。俺には打開策など見えない。出来ることは生きている店にコインを入れにいくだけだ。

最後に棺担ぎのクロからこの言葉を。
『旅人が本当に辛いときは 自分の中に旅をやめる「理由」を抱いたときかもしれない』